(左)渡邉尚(ワタナベ・ヒサシ)・・・沖縄在住の身体研究家。ジャグリング作品で出演。地面を使うフロアジャグリングを提唱、世界中のダンス・サーカス界で受賞するなどの活躍を見せている。
(右)尹雄大(ユン・ウンデ)・・・政財界人やアスリート、アーティストなど約1000人に取材しその経験と様々な武術を稽古した体験をもとに身体論を展開。主な著書に『やわらかな言葉と体のレッスン』『体の知性を取り戻す』『増補新版 FLOW 韓氏意拳の哲学』『脇道にそれる』など。
最近は自分がジャグラーだと名乗らない
(尹)ジャグリングには扱っている物を落としてはいけないという原則があります。渡邉さんは、下に置いた状態から始めています。どうしてそのような発想になったのでしょうか?
(渡)昔、タキシード着てたくさんの数を投げるジェントルマンジャグリングというものがあったんですよ。そこからだんだんと崩れて、ボールの数が減っていったんですね。それと同時に格調高さみたいなものも無くなっていって。
僕はその先にあるジャグリングをしたいなと思っていたし、 僕自身もあんまりきっちりしたものが好きじゃないんですね。だから、落とすぐらい良いじゃない、って。
(尹)ひたすらストレッチをされていた時期もあったそうですね。身体の動きの可動域が広がることはそれほど重要だったのでしょうか。
(渡)ストレッチするだけでジャグリングが変わっちゃうんです。単純にみんな肩とか詰まってて、それが伸びるだけで勝手にゆらぎが起こる。僕はゆらぎの中に秘密があると思っていて、ゆらぎを大きくするためにストレッチしているという感じですね。
僕は人間外の形になることを楽しみたい。僕のジャグリングって日常と離れたところに宿るものだと思っているんですよ。だから人の体の形じゃ生まれないなと思っていて。どんどん可動域を広げていって、力を抜いていってゆらぎが起こるようにして、そのゆらぎの中から新しいジャグリングの動きが生まれると、僕は楽しいんです。
(尹)日常の動作から離れていくことはどこで見出しましたか。
(渡)もののけ姫を見た頃ずっと夜中に町内を4足で歩いていたんです。人間のふりをするっていうことがどうしても違和感があって。たとえば社会的には鼻ほじったりしたらいけないじゃないですか。おしりかいてもいけないし。おならこくのもダメだし。
でも生物的に言ったら普通ですよね。生物的に普通のことを我慢することで一体僕らはどのぐらいのデメリットを被ってるんだろう、と思うんですよ。
自然の体の欲求を閉ざすとどこかに不都合が起きるよって、整体の凄い人たちはみんな言うてるんですけど、僕は4足歩行してなかったら死んでたかもしれない。だから僕はそれも整体行為だな、って思ってるんですよ。
僕は足の裏でよくボールを掴むんですよ。逆立ちとか。人間社会ではやらないことだからこそ意味がある。社会的なジャグリングだったらあんまりやる意味がないなと思ってるんです。
最近は社会的なジャグリングが拡大してきたな、と思ってるんです。
前までは、ダンサブルなジャグリングをする人はあんまりいなかったんですよね。でも最近そういうジャグリングも一般の人がするようになってきた。僕はもうここもちょっと渋滞してきたなと思ってるんですよね。
だから最近は自分がジャグラーだと名乗らないで、サーカスアーティスト、身体研究家と名乗っています。
人間社会は凄いしがらみがあるし、よくわからないルールもいっぱいある。その中で自分の動物性に立ち返ることができたら、多分みんな生きていけるんですよ。だからこそ自分の動物性を発見する必要がある。欧米では動物っていうと人間より下位のものって捉えられるけど、僕は動物性が自分の身体にあるっていうことは救いだなと思ってるんです。
(尹)人間と動物の領域が厳しく区分されているからこそ、動物の権利を認めて保護する活動も盛んになるわけです。
(渡)ターザンの主題歌は人間の社会とジャングルの世界二つの世界があるという歌なんですけど、でも現状は全然違うじゃないですか。自然っていうでかい世界があって、人間ってちっちゃい世界があるだけ。欧米の人が考えるとそういう風なものになっちゃうのかな、みたいな感じ。
僕は欧米文化を否定したいとかじゃなく、自分の体の動物性、性質を読むことというのは、今後テクノロジーがますます発達していく中でさらに大事になってくる確信あるんですよね。
ユヴァル・ノア・ハラリも今後どんどんテクノロジーが発達する中で対抗するのは瞑想だって言っていて。瞑想っていうのは自分の呼吸を取り戻すことだしマインドフルネスで、確かにそれは必要なんですよ。いつも前のめりになっていっちゃうので、そうじゃなくて、今ここに落とす、というその時にガイドになるのが動物性だと僕は思ってるんです。